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ヒストリーof社労士

» vol9. 地方の動き

 両会の合併協議会は中断のやむなきに至った。ここで地方の動きを追ってみよう。
 群立していた関係団体は法施行後、中央の主流二団体に併合されたことは先に述べた。
地方では地域独自のさまざまな団体があり、団体統合は複雑な動きを示していた。特に大阪を中心とする関西地方は社労士史上最も激しい動きをとったところである。
 中央の管理士協会と保険士会とも地方組織は弱かった。近畿地方には税理士を中心に組織した労働基準局長許可の三社団法人が活躍していた。京都府、大阪府、兵庫県の各労務管理協会である。さらに行政書士会から独立した大阪府社労士会をはじめとする近畿六府県会が日行連と提携して統一の核になろうと動いていた。また社会党系の中小企業労務協会も盛んな活動を展開していた。
 こうした近畿の各団体は体質的に東京中心の団体と異なっていた。つまり、労務管理士の育成を看板にしていた東京と違って、いわば社労士業を実務として行っていたのが近畿の労務管理協会であった。それだけに団体統一問題がクローズアップされると、中央には理解できないローカルな独自の考え方を持っていた。その代表的意見として統一団体の組織形態に関する意見がある。それは中央集権的組織は不可とするものである。
 具体的にいうと、厚生・労働行政は都道府県の地域性、特殊性を考慮されて推進されており、したがって中央の画一的な指導や組織構成は運営面からみて効果的でないとする考え方である。行政書士会が母体となって各地の社労士会結成が先行したのも、こうした考え方から出発したもので、特に近畿においてはそれが強かった。これに刺激されて中部、中国、四国、九州の各ブロック会結成の動きが高まったのも44年であった。
 同年12月、京都府社労士会に、京都府知事(実際の窓口は府民生部保険課)により公益法人の許可がおりた。制度発足後、社会保険労務士会を名乗る団体に公益法人の許可は同会が初めてである。日社連は翌45年1月、日社連会長名で傘下単位会に対し、社団法人の申請を都道府県知事あてに出すよう指令を出した。

 

 ところで、社労士関係団体に対する公益法人許可は法施行後両省庁間の申し合わせで、原則的には認めない方針をとった。したがってこれまでにも両省庁に対して出された法人許可申請はすべて保留か、却下されていた。
 これは団体が乱立している現状で、一団体に許可すればすべての団体に許可しなければならないこと、関係団体が統合して業界再編の機運がたかまっている折から、許可は業界を混乱にまき込む、などの理由からである。両省庁からの自粛要請が徹底していたため、各団体とも法人許可申請は見合わせるというのが不文律となっていた。それだけに京都府知事の公益法人許可は業界だけでなく両省庁とくに労働省にとって大きなショックだったようであった。
 以上のような地方の動きに対して、両省庁は本格的な行政指導に乗り出した。45年2月、労働省は全国労働基準局長会議で、また社会保険庁は八大都市保険課長会議で、それぞれ「社労士関係団体連絡協議会」設置の構想を打ち出した。その手始めとして44年11月以降中断されていた管理士協会と保険士会の合併問題協議会を再開させることにした。この場合、とくに合併問題は表面に出さず両団体で解決できる総合的なものから協議していこうというものである。いわば対立の根源となる”合併”問題はそっとしておいて、ムードづくりに努めて機の熟するのを待って一気に合併にもっていこうというわけである。 
 45年1月、労働省は社会保険庁に「業界再編に協力してほしい」と申し入れ、保険庁は保険士会に「労務管理協会と円満に話し合いを続けるよう」伝えた。
 この結果、両団体による連絡協議会を設けることになった。連絡協は協議事項としてとくに合併問題に固執せず、両団体で解決できる総合的な共通事項を討議するという方針で臨むことになった。

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