中企団加盟社労士
全国6,257事務所

トップページ団体案内(概要)ヒストリーof社労士vol10. 合併へ両省庁動く


ヒストリーof社労士

» vol10. 合併へ両省庁動く

労働・社会保険庁両省庁は法成立後、施行に伴う一連の経過措置と第1回試験に忙殺され、業界の統一化をはじめ業務に関する実務面での具体的指導にまで手が回らなかった。
 両省庁の出先機関はこれらの諸問題についての照会があい次ぎ、出先の担当官は本省から具体的指示がないまま困惑していたのが現状であった。第1回試験合格者発表を終えて一段落した両省庁はこのときから積極的に行政指導に乗り出すのである。
 労働省は2月の全国監督課長会議で、(1)団体の現状、(2)公益法人の許可申請、(3)報酬規定、(4)法第19条の「備付帳簿」 などが議題となり、特に報酬規定については両団体の報酬規定が参考資料として提出され、これをモデル報酬として活用することを内定している。 
 また、団体問題についてはこれまで両団体の自主性にまかせていたが、制度の確立と発展のためには団体の統一化を速やかに実現しなければならず、両団体連絡協議会設置の方向で指導することなども決めている。
 同じく2月に開かれた全国労働基準局長会議で労働省は、社労士関係団体の現状と今後の基本的方針をつぎのように明らかにした。

1 各関係団体に連絡協議会的な組織を設けさせ、相互に意思の疎通をはからせながら具体化する。
2 地方においても関係団体の連絡協議会を設ける。
3 関係団体の中には公益法人の許可申請を行うむきもあるが、単に営利を目的とする団体および親睦団体が社労士の資質向上を図ることを目的にうたって公益法人の許可申請をしても許可しない。

 

 一方、社会保険庁も2月中旬に八大都市保険課長会議で労働省とほぼ同様の内容による指示が行われた。こうした両省庁の斡旋による両団体協議会は、3月、4月の2回にわたって開かれた。
 第1回協議会は神田・明神会館で開かれ、斡旋役の役所側は社会保険庁の上村一総務課長、同小林巧典課長補佐、労働省は大塚明良制度室長、同関根良作課長補佐が出席、関根課長補佐が自ら司会をかって出るなど、労働省側の積極的な姿勢が目立った。保険士会側は内田一男副会長、石関曄専務理事、永野秀雄、秀平香、加藤義男の常任理事、田村広二理事、森下稔事務局長。労務管理士協会側は三浦万亀男、柏木高美両副会長、石黒辰三郎、下出誠、相原真仁常務理事、浜恒男理事、鍋田光一専務理事事務局長だった。
 第2回協議会では、今後週1回の小委員会を開くことを決め、資質の向上、開業者の指導、会員名簿の確認、報酬規定の適正化、会員の福利厚生対策などを協議することとした。
 労働省としては、この協議会を通じて6月をメドに両団体の統合をはかりたいと考えていた。前年の協議会が流れたという苦い経験もあって、協議会の運営は慎重そのものであった。当初は両省庁の方針どおり合併問題は避け、もっぱら両団体が相互協力できる共通事項が議題として取り上げられた。
 例えば、社労士免許交付1周年を記念して両団体が協力して制度のポスター作成や、両団体の開業者名簿を労働基準監督署、公共職業安定所、社会保険事務所などに備え付けるなど、また、両国体共催による1日無料相談所の開設などで、とりわけ相談所は予想以上の成果をあげた。
 第5回協議会(7月3日)で保険士会側から「新団体設立について真剣に対処したい」との申し出があり管理士協会も「お互いに協力して目的を達成したい」と応じ次の事項を決定した。

1 両団体は新団体設立について何のわだかまりもなく前向きに取り組むこと。
2 両団体より3名ずつの委員を選出し小委員会を設けて問題事項をとりまとめる。

 小委員会は都合3回開かれ、次のような合意、不合意事項が確認された。
合意事項

1 名称=社団法人日本社会保険労務士会とする。
2 目的=社会保険労務士の指導及び育成の事業。
3 組織=全国一本の団体とし、都道府県単位に支部を置く。
4 事務所=本部を砂防会館(保険士会所在地)に置く場合は東京支部は共同ビル(管理士協会所在地)に置く。
5 年会費=開業者12,000円、非開業者4,800円、会員3,000円
6 設立手続=現団体を解散して設立(対等合併)

 

 設立手続きについて前回の合併協議会では保険士会が「解散の要なし」とはねつけたが今回はスンナリ同意した。
 では最後まで合意に達せず協議会中断、というよりも事実上、”決裂”の原因となったものはというと—。
 まず、構成員の問題で保険士会が「社労士及び有資格者」としたのに対し協会側はあくまでも「免許取得者」を主張、前回協議会のときと同様激論がかわされた。
 次に役員定数で保険士会は「百名以内とし会員数に比例割」を主張、協会側は「百名程度とし折半」と対立した。会員比率割をとると協会からの役員数は全役員の5分の1となり、新団体のイニシアティブは完全に保険士会派が握ってしまう。
 さらに会長問題についても古井喜實氏案と中西實氏が相譲らず、この会長問題での歩み寄りがみられなかったことが、”決裂”の大きな原因になったと思われる。
 この他、副会長、常任理事、監事についてはおおむね一致していたが、新団体設立の時期についても保険士会側が46年4月1日としたのに対し、協会側は45年11月中を固執した。
 この対立の中で調停役の両省庁から斡旋案として次の2案が示された。

1案は、

理事数は保険士会6協会4とする。
古井・中西氏は名誉職とし、別に新会長を選任する。

 

 第2案は、

理事数は1案と同じ。
古井会長、中西實理事長とし、複数の副理事長を置き、日常の会務は理事長の権限とする。

 

 この斡旋案も両団体の同意を得られず、協議会は暗礁に乗り上げた。
 12月2日に開かれた協会の理事会で中西会長は「会長問題が最後まで両者の食い違い点となった。私自身は全くこだわりを持たず大先輩の古井さんを会長にして、私は理事長でも何でもいいことにしたらということで調整したがうまくいかなかった。保険士会は社会保険事務が中心で、その構成は現役またはOBが中心となり全国組織の役所が中心だ。保険士会のほうは定款を改定し、そこに協会を吸収しようとする意図が基本的には変わっていないのではないか。こちらは民間の労務管理の専門家、世話役の結集体である。このまま推移してはサービス部門もおろそかになるので、一応ここでふんぎりをつけよう。地方では開業者の大同団結を働きかけてほしい」(全社労「20年の歩み」から)。

▲PAGETOP