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トップページ団体案内(概要)ヒストリーof社労士vol22. 法改正成り、法定団体設立へ


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» vol22. 法改正成り、法定団体設立へ

 新団体が産声をあげる直前、中央会は社労士に関する公益法人設立許可申請書を厚生・労働両大臣に提出している。51年5月12日であった。
 中央会結成時(4月26日)、「官許の団体はあるが、これは労働省、厚生省それぞれのサイドに立った公認団体であって、社労士法に基づく完全な社労士団体は皆無である。だからこそ開業者が中心になって結成した中央会にこそ両省は法人許可を与えるべきだ」というのが中央会の趣旨であった。
 この法人許可申請について労働省筋では「開業者全国大会から期成同盟までの一連の行動は、業界の大同団結を促進した意味で高く評価できる」としながらも、第三勢力として中央会が結成され、その法人許可申請は、「期成同盟が主張した大同団結の精神に逆行する動きであり、指導者の倫理感を疑う」という批判があった。
 しかし、こうした批判は、中央会側からみれば、既成団体のみを社労士団体とする、いわば身内の偏狭的な論理であり、期成同盟を評価するならば、その時期において官側がどう対処したかを反省すべきであろう。
 既成両団体が6月、統合について合意に達し、確認書に調印したとき”互譲の精神”を自賛した。このとき、あるいは新団体発足時に示された会長問題での互譲の精神が、こと中央会問題に関してはどのように示されたというのだろうか。
 新団体発足の日、労働大臣の祝辞を代表した石井一労働政務次官は、とくに次官自らの発言であると前置きして中央会問題に触れている。
 「真の社労士の大同団結は中央会を無視できず、中央会をも包含しなければ意味がない。新団体の公益法人許可までに、両者(新団体と中央会)が十分に話し合って円満に解決されんことを役所としても深い関心をもっている」と発言して注目された。
 この後中央会の深谷会長は政友である石井次官とも積極的に話し合い円満解決の方策を探った。さらに労働省谷口隆志総務課長も新団体と中央会の仲を斡旋、何度か話し合いの場を設けたが、新団体と中央会の合意は得られないまま11月16日、全社労に対する両省庁の公益法人が許可されるのである。事務所は港区西久保巴町・第六森ビルに置かれた。

 

 全社労は発足のあと第二の悲願である法改正の実現に組織をあげて取り組む。そして53年5月12日、第84通常国会で社労士法の一部改正が成立、同年9月1日施行された。
 この法改正によって法定団体の設立が明文化された。都道府県社会保険労務士会は9月20日の宮崎を皮切りに次々と設立され、全国社労士会は連合会の設立総会を12月1日に東京・虎の門、共済会館で開いた。
 法定団体全国社会保険労務士会連合会が設立されたのに伴い、中央会も同会を中心とする法定団体を設立(吉田博畝会長)した。
 51年から続けられていた全社労と中央会の確執も、法改正成立を機に改善がはかられ、9月12日には「法定団体の設置に関する申し合わせ」を取り交わし、都道府県会の設立に当っては、すべての社労士を差別なく参加できるように努め、従来の経緯等に拘ることなく、すべての社労士が平等な権利のもとに総結集することで合意をみた。
 11月、新東京ホテルにおいて労働省(今井労働保険徴収課長)、社会保険庁(正木総務課長)立ち合いのもとに、全社労から柏木高美、竹田武次郎(故人)の両副会長、中央会は森下稔代表と私、川口義彦が出席、全社労東京会との対等合併に合意。11月合併調印後、中央会は解散した。
 中央会がなぜ東京会との合併に合意したかは、中央会の全国組織がまだ大成ならず、東京に重点を置いていた中央会と、全社労の東京会との合併が最良の方策と、残念ながら中央会として現実に逆らえなかったのである。

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