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ヒストリーof社労士

» vol1. 敗戦が社労士を生んだ

昭和20年8月15日、大東亜戦争は日本の敗戦によって終止符をうった。

 8月23日には陸海軍の復員が始まり、翌21年には中国大陸、満州地区からの邦人引き揚げが開始されるなど、焼土と化した日本列島の人口密度を押し上げていくのである。

 こうした背景の中で、20年12月には労働組合法が公布され、さらに翌21年9月、労働関係調整法が、22年4月労働基準法がそれぞれ公布され、同年9月、労働省が創設される。
 当時の世相は、開放された労働組合運動の赤旗が林立し、労働基準法施行による労働条件の基準化を迫られた中小企業経営者は、新法に対する大きな戸惑いがあったことは事実であったろう。この労働関係三法の施行は、復員や引き揚げてきた多くのインテリゲンチャに希望を与えた。労基法に基づく就業規則の作成や、手続き事務に目をつけたのである。
 帳簿の記帳や手続き事務書類の作成、賃金計算などのできる人、少しでもそうした才能のある人にとっては、この事務代行業務は簡単で絶好なビジネスであったといえる。
 こうした経緯から社会保険労務士法が誕生する昭和43年までの20数年間は、まさに労務代行業者の戦国時代であった。代行業者の存在は、たしかに労働基準行政の各事業所への浸透という面で大きな効果があったものの、一面、悪質業者の跳りょうを許すという問題が併在した。
 そこで「ひとつ、業者自ら団体をつくって自主的に規制しては・・・」という意見が良識派の業者から出され、斯界の大先輩である三浦萬亀男氏、戒田集氏(故人)らが中心となって「東京都労働事務管理団体連合会」が発足したのが昭和30年1月であった。これが関係団体の嚆矢である。
 この団体は同年12月、労働省認可の社団法人「労務管理協会」に発展、さらに34年5月、同協会を中核とする「日本労務管理士連合会」が発足する。これは当時ブームとなりつつあった資格(労務管理士)付与のための全国団体である。
 斯界の大先輩である柏木高美氏の著書「ひとすじの道」のなかで、この間の事情を次のように回顧されている。

 

もともと東京都労働事務管理団体連合会を解散して「労務管理協会」を設立しようとした目的は、労務管理士制度を法制化することにあった。当時の会員はわずか50名前後であったが、なんとか身分法をつくろうと、意気まことに盛んなものがあった。
 協会の民法法人の認可申請に当たっては「労務管理士会」として申請する予定だったが、これは認められなかった。当時、労働省内部で“公認労務士制度”をつくろうとする動きがあったからである。

 

 

この労務管理士という称号は、同協会によって特許庁に商標登録されるにとどまり、私制度として社労士制度が発足するまで続くことになる。
 38年5月、労務管理協会は、新しく会長に労働事務次官を辞めて労働福祉事業団理事長だった中西實氏を迎え、身分法の制度に向けて活動を開始する。そして40年8月には待望の「日本労務管理士協会」への名称変更が認められ、労務管理士法という身分制定への布石としたのである。
 このほか、33年5月に、大橋武夫元労相を会長とする「日本労務管理士会」が東京・中央区に設立され、もっぱら労務管理士の養成に当たっていた。
 また、39年2月には、「東京社会保険士会」が設立されている。社会保険士の称号は厚生省(社会保険庁)の所轄である健康保険・厚生年金などの事務を取り扱う代行業務者の名称で、のち、42年に東京都民生局保険部の指導で社団法人「日本社会保険士会」(古井喜実会長=元厚相)として発足する。労務管理士に対する社会保険士の出現で、身分法法制化の動きは活発化すると同時に、のちの団体間抗争のタネがまかれたといえよう。

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